昭和42年10月17日 夜の御理解


 今日はここで十時から結婚式がございます。それに今日私が奉仕をするわけでございますけれども、稲員の高山さん達御夫妻の仲人でなさいます。云うなら変わった新郎新婦でございますが新郎になられる方は鍼灸の針とかなされる、目が見えられない。それから新婦の方は非常にでけた方らしいですけれども、以前はここに参って来よりました。椛目時代にお母さんはここへずっと参って来ます。足がちょっと悪い。そういう結婚式を奉仕するわけでございますけれども、そのお届けをなさいます時に、私感心したことがあるのです。式中いわゆる、お祭り中に新郎新婦が神様にお誓いを申し上げる誓いの言葉というものがございます。ところが肝心要の新郎になられる方が目が見えないですから、これは高山さんあんたが変わりに読んであげなさい。でなけりゃいけんでしょうと申しました。高山さんもそうさせて頂だこうというて、先方に行って話されたところが、いや神様の前で自分が読む。点字でその自分で神様の前で自分で読ませてもらうというて云われたと聞きまして私はもうほんとに信心にはそういうものが必要なのですね。
 これは夫婦の仲のことでも新婚時代を忘れなかったら一生が夫婦の生活だけは幸せだと言われております。花婿花嫁のその気持ちさえ忘れさえしなかったらもう夫婦生活の上だけに於いては一生が幸せだと何もかにもがちいうわけではありませんよね。
 ところがそこが薄らいでまいります、ね。このお多福が、ということに段々なってまいりましたり、このひょっとこが、というようなことに双方から思うようになります。ですから、信心とはほんとにそういうひとつの過程においてですね、例えばその夫婦の仲でありましてもです。ほんとに主人がひょっとこに見えたり家内がお多福に見えたりする時にはです、自分自身がひょっとこであると悟らにゃいかんです。主人がひょっとこに見える時には自分自身がお多福であると思わにゃでけん。この男が、このひょっとこだと言い合ったり争っておったんではです、夫婦生活にでも幸せがあろうと思われません。信心は全てそこが基点になるものです。あれが悪いのじゃない、こっちなんだ。これが信心の基本なんだ。ほんとのおかげを頂いていく為にはそこんところの基本というものがでけなければ駄目なんです。
 私が私が改まればということなんですね。一寸話が横道に逸れましたけれども、信心にもその新郎新婦時代のです、ね、生き生きとした若々しさというものが必要であります。信心には絶対です。それが段々薄らいでまいりますとするならです、信心のいわば値打ちがない。例えて云うならばお魚屋さんの生きのいい魚と塩物になったり干物に乾燥した干物になったり、干物になった魚くらいに違います。
 どうでも信心に求められるものは生き生きとしたもの、ぴちぴちしたもの若々しさです、ね。三代金光様がご晩年の頃、八十何歳になられる頃、ご晩年の頃でもいつお参りさせて頂いても、それこそ生き生きとしたものを私共に与えて下さいましたですね。そして自分でお話しをなさるわけでない。ただ御結界にこうして御奉仕をなさっておられる。そのお姿の中から、そういう生き生きしたものを感じておりましたね。だからこそ三代様がおっしゃっておられるお言葉の中に信心は日々がさらでございます、信心は日々がさらでございます。これは私共もそれを感じます。もう日々御神前に出らせて頂いて同じ、云うならば一時間十五分ですかね、殆ど。毎日変わりません。もうその一時間十五分がですね、実に食べ物で云うならばひっこんごと美味しいです。立たれないです。有り難くてもう昨日なんか昨日の朝なんかはご承知のように毎晩毎晩不眠不休のような日が続いておりましたし、もお大祭が済みましたらもう疲労の極点でした。
 昨夜、御大祭の晩です。だからとても明日小倉にお礼に出らにゃならんけれども、代参をたてなければ出来ないと皆さんが言うておられましたけれどもさあ、朝ここへ出て参りましてから、御祈念の座に着きましてから新しい皿がですね、何と申しますかね。新しい皿が入れ替えられるという感じで、ね。もう今迄の疲れとか眠さとかと言ったもんはいっぺんに飛んでしもうた。今日はおかげ頂ける。昨日は小倉に出ましたら末子先生、桂先生が大坪先生顔色がよくなられましたね。私が不健康であることを知っておられますから一番にそれをおっしゃるくらいでした。さらな信心にはそういう云わば利役というのがあるのです。
 日々がさらな信心です。毎朝こうしてお参りはしよる。それがなんとはなしに習性になる、癖になってしまう。お参りをしておる。御祈念中にはもう眠ってしまっとる。御理解を頂きよってもふらふらしよる。・・・・がない。これはさらなものがない証拠です。
もしそうであるとするなら、又これは自分の信心がおかしい、老化しよるぞと悟らにゃいけません。もうお腹がいっぱいなっとると悟らにゃいけませんね。
 目が見えられない。それでも一生一度の結婚式に、誓いのものを云わなければならんならば、変わりに人に読んで貰うようなことはいやだ。点字ででも自分が読みたいとこういう。そういう私は生き生きとした熱意と云ったようなものがなからなければですね、いわゆる新郎新婦のようなおかげは受けられません。
 しかも新郎新婦がそれこそ年寄りになりましても、年を取ってまいりましてもその新郎新婦の時の気持ちというものを失わんで済む為にです、信心もです、ほんとに初めのことを忘れなかったら結構であるとおっしゃっとられますように、そういう初な生き生きとしたものが必要である。そこで私がどうすればそのさらな信心、そういうさらなものが生まれてくるかと毎日毎日同じことを繰り返しておると、それが云わば惰性というかね。惰性で信心が続けられておるといったことになりますと、何もかにも感激がない、何の喜びもない。ほんとに初めの間は初めて頂く天地の道理、初めて聞かせてもらう天地の御恩徳。ほんとにそういう神様がおられたんだ、そういう在り方ということが生き方の中にあるのだ、天地の大恩を知って天地の大恩に報いる生活というのが信心生活だと、今迄こんなことは知らなかった。初めて聞くそういう話にです、例えば心が躍動している。初めの間は実に有り難かったんだけれども、先生が又あげな同じごたる話を毎朝しなさるということになってまいりますと、眠気がついてくる。もうさらなものが欠けてくるわけです。
 そこでさらなものを求めて信心させてもらう。そしてさらな信心をさせて頂く。さらとおっしゃるさらな信心をどういう状態にならせて頂いたらおかげを頂かせてもらえるかと三度三度の食事がいっちょおいしなか。砂噛むごたるね。毎朝御理解を頂かせてもらうけれども、その御理解がひとつも有り難くない。どころか眠気がつく。心に入っていかない。結局私は運動不足だとこう思うね。運動不足だからおなかが空かんのです。おなかが空いとれば何を食べても美味しい。運動不足ということはです、いかに教えを本気で行じていないかと云うことなんです。今朝頂いた御理解をです、今日一日それを咀嚼する。よく噛み下す、それを日常生活の中に表していく。だからもう明日の食べ物を求めてるわけです。もう夕方おなかが空く、ね。私はさらなおかげ、さらな信心というのはですね、もう日々の御祈念が例えば、御理解をこうして頂くことがそれが有り難うしてたまらん、おいしゅうしてたまらん。ということになってこなければ駄目だということ。それにはやはり運動不足。さらな信心させてもろうたら御神前にぬかずかせて頂くことがありがたい。どんな疲れもなくなってしまう程におかげを頂く、ね。
 結論致しますとね。いかに私共の求道する心というものが足りないかということを知らなければなりません。求道心、道を求めるという心が足りないということ。おなかがひもじい、食べたい食べたい食べたいという時、そういう時与えられたものは何を食べても美味しいということなんです。求めてやまない、もうほんとに信心はこれでよいということはないのですよ。もうそれこそ、死ぬるまでしかも限りがない、無限。だからこそ、おかげも又限りなく無限に無尽蔵に頂けていくのですよ。例えば昨日、一昨日の御大祭のひとつのそれこそあの盛大な賑やかな御大祭を拝ませて頂いてです、ね、あれがどうしてああいう風に御大祭ができて行くのか、もう本当に限りなくああいうおかげが受けられるのかというと私は限りなく求めてやまない求道心に燃えておるからでしょう。
 道を求める心というものがです、あれば修行もさせてもらえる。道を求める心が燃えておればです、どういうお話しを頂きましてもそのお話しが、いわゆるそれが神様のいわゆる神語りなのだから、神様の心なのだから、御教えだからそれが有り難くない筈が無い。それが有り難くないというのは貴方が腹一杯なんだからだということなんです、ね。その教えというものを本当に行じていないからだということなんだね。だから、神様が求め給う修行を求め給う、運動を求め給う。昨夜私共が小倉から帰りましたのは、もう丁度夕飯の頃でございました。もうそれこそ、皆さんがこちらで待っておる筈だったものですから、もう兎に角一生懸命で帰って参りましたけれども、だからご飯も何も途中で頂かんなりだった。お腹空かして帰って来た。それでお風呂頂いてからお食事をさして頂きました。昨日は云うならば御大祭の後の云わば膳ざらいのもののようですから、色々お御馳走があるだろうというのでたのしみに皆帰って来た。そしてお膳部につかせて頂きましたから、何かこうご飯のお菜のようなものばっかりしかなかです。ガメ煮とかサラダとかといったようなものがなか、おさしみも付いとらん。吸い物もついとらん。皆先生方、高橋さん達おご苦労頂きまして帰って来て頂いて今日は大祭の明くる日だからお御馳走があるばいというて帰って来たところが何も無い。それで私は勝手に行ってからおさし身を作れと、ところが食べてしもうてありません。そんならこの頃東京からコノシロですね、こはだのおさしみを頂いとりましたから、あれを切る。茶碗蒸しもつくれ、材料が何かあろうが。ゆっくり念を入れて作れ。お神酒さん一献頂いてもらうのだから、ゆっくり作れというて茶椀蒸しを作らせましたり、おさしみをつくらせたり致しました。そして私は思うですね。私達はきょうはお腹がペコペコに空いとるのだから何を食べても美味しいのだけれども今日はうちでする私共の持っておる真心が足りなかったということを神様が真心を求め給うなと思いましたですね。
 この方の道は真心ひとつで助かるとおっしゃる。今日親先生が、秋永先生が、高橋さん達が又総代さん達が私の帰りを待ってです、夕食を待ってくれとりますから今日はわざわざ買い求めてするのじゃない、おさしみのひとつでも作っておこう、茶椀蒸しのひとつも作っておこうと人にばっかりお御馳走を食べてもらったけれども、こちらは何も頂いとらんのだから、今日はこうさして頂こうという、うちに残っておる者がそれだけのことをさして頂く真心が必要であったんです。
 だから、神様は求め給う。それを私共生活の中に感じることがあるのですね。こうせにゃならんことは分かっとるけれども、もうおおごじゃけん、これはもう真心がないです。ですからそれはおかげ頂かせたいばっかりに求め給うのですよ。
 昨日、ある方が晩に参って来て一家中で有り難い信心をする、熱心に信心をする。お母さんなんかはもうほんとに何日も何日も泊まり込みのようにしてから御用を頂いておる。だからせめて御大祭くらいは一家中の者が店を休んでからでも皆でお参りをさしてもらう。さあ、お父さん貴方もお参りしなさいというたけれども、今日は忙しかけんでお参りがでけん。云うならば世紀の祭典、もう後にも先にもこういうお祭りはないのだけん、お父さん一緒にお参りしようというのだけれども、お前どんだけ参ってこい、俺は参らん。と云うてから参らん。今日小倉から帰ってお風呂からあがっとりましたらお願いに出て来た。話を聞いたところが、ちょっとした事故を、怪我も何もした訳ではないのだけれども、相手が悪かった、いわゆるあれを弁償してくれ「     ヤクザを呼ぶとか色々云われてお父さんおとなしかもんじゃけん、それをハイと云うて帰った。ところがくーとしてある。そしてもう働いたっちゃ同じこつ、こげなことで取られるごたんならち云いよんなさる。お父さんみてみなさい。私が昨日あげん云うた時に貴方がお参りしとんなさりゃこげなこともなかったろばってん、もうそりばってんおかげですよ、ね。元気出して下さい。兎に角合楽にお願いに出てくるけんと云って家内が昨日お願いに出て参りました。真心がですね、これだけの真心を以てすればこれだけのおかげを下さろうとするのに、真心が欠けておるから、欠けておるところだけは求め給う。何万円かガバーとたつものとしてはそれこそ「  ? 捨てるような金を出さねばならん。真心が神様がおかげを下さろうとするからこそ真心をですね。・・・・